Murakami Journal
演劇批評を中心としたエッセイ

1月14日劇評2012

8人の女たち

原作:ロベール・トマ
脚本・演出:G2



透明な舞台の密室殺人劇


今回は、フランスの劇作家ロベール・トマの芝居を取り上げる。4年前のピーター熱演による「」につづく第2作「8人の女たち」である。
 前作と同様、登場人物のセリフだけで進行する会話劇、しかも今度は雪に閉ざされた邸宅での密室殺人をめぐる推理劇である。

 興味深いのは、通常の観客席の他に、ステージ後方にも客席を設え、舞台にあるのはソファーだけという、まるで密室性を消去した舞台づくりであることだ。しかも、舞台両袖にイスが並べられ、演技を終えた役者はそこに座って次の出番を待つ。

 このような演出の意図は何か。観客は、舞台装置にたよることなく、役者のセリフとしぐさだけから情景を思い描き、ストーリーの展開を追うことが求められる。だが、それ以上に、役者たちにとっては、通常の演技だけでなく、その立ち位置やセリフのない時の身ぶりを含め、終始舞台に全身をさらけ出すことが要求される。

 こうした抽象的で透明な舞台づくりはNODA・MAPの「贋作・罪と罰」(06年)をはじめ、これまでなかったわけではない。おそらく能舞台に起源を持つ、このような試みが成功することはまれだ。理由は単純である。演技を終えた役者の身体がたえず舞台上に見えるのは劇進行の邪魔だからだ。

 そのまれな成功例が、この「8人の女たち」である。


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  1. 2012/01/14(土) 13:44:21|
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見立てと日本人15

「やつし」という言葉の不思議

 見立て発想のなかでもとりわけ日本的な技法に「やつし」がある。
「やつし」という日本語はとても不思議な言葉である。
「窶し」「略し」という漢字をあてることからもわかるように、もともとの意味は「目立たない、みすぼらしい姿に変えること」である。ところが、本来の意味とは別に、まるで逆の意味に用いられることがある。「化粧する」とか「着飾る」とかいう意味で用いる場合である。(ほかに、「恋に身をやつす」などという言い方もあるが、これはもとの語意からそう遠くはない。)
 では、いつ頃から、このような意味の逆転が生じたのであろうか。
 まず、もともとの意味の方であるが、こちらは『伊勢物語』や『源氏物語』をはじめ、平安時代から数多く用いられている。11世紀半ばの『堤中納言物語』の例をあげてみよう。
有名な「虫めづる姫君」の中の、姫が虫の飼育に熱中するあまり、「かくまでやつしたれど、みにくくなどはあらで」(これほどまでにみすぼらしくしているが、見苦しいなどということはない)という表現がそれである。姫君の美しさは、たとえみすぼらしい身なりをしていても、おのずから輝いて見えるという含意が込められていることに注意しておきたい。
 もっとも、『源氏物語』では、その最終巻「夢浮橋」の中の浮舟が傷心のあまり、「心もなく、たちまちに形をやつしてける」(前後のみさかいもなく、あっという間に姿を尼の姿にしてしまった)という例のように、「出家する」意味で用いられる場合も多い。
これは『伊勢物語』についてもいえることであるが、この用法がもとの「みすぼらしくする」という語意から派生したものであることはたやすく理解できるだろう。
 さて、一方、「化粧」や「着飾る」意味での「やつし」の用例だが、どうやら江戸時代からのようである。岩波の広辞苑によれば、『浪花聞書』に「やつす。顔かたちなどつくり、又、女の化粧することをかく言ふ」とある。
 また、あの鈴木春信が東錦絵に着手した明和2年(1765)の『俳風柳多留』(呉陵軒可有編)の中に、「やつさずに濡れ事をする新五郎」という狂句がある。
 こちらは、小学館の国語大辞典が「化粧」「着飾る」の意味の例としてあげているものだ。それにしても、なんだかスキャンダラスな匂いのする句ではないか。
 それもそのはずで、正徳4年(1714)の春、大奥女中の江島と密通のかどで流刑に処せられた実在の歌舞俳優、とりわけ和事に長じた生島新五郎のことを詠んだ句なのである。
つまり、「化粧をした舞台の上でなら許されようが、素顔のままでほんとうの醜聞を演じてしまった愚かな新五郎」というのがこの句の意味なのである。
 けれど、なぜ、「やつし」が江戸時代になって「化粧」や「着飾る」の意味へと転換したのか。その原因を探ってみることにしよう。
 「やつし」という言葉の両極の意味の間に共通する点はないだろうか。
それは、「みすぼらしい姿をする」ことと「着飾る」ことのいずれもが平常の状態ではない、という点だ。もっといえば、どちらも「変装」という行為を意味している。
 これを記号論的にいえば、どちらの状態も「有徴」で、しばしば意味の乗換えが生じるということになる。だが、そうした説明は後知恵の結果論にすぎず、創造的思考のためにはむしろ有害である。私たちが探らなければならないのは、「やつし」の意味の逆転が生じた現場検証なのである。
 ところで、「やつし」が歌舞伎の技法として完成をみたのは、およそ元禄期の上方歌舞伎においてであったといわれる。
 「やつし事」といえば、わけあって身を落した高貴な人物や金持の息子などがいやしい姿でする演技あるいはその芝居をさす。また、それを演じる役柄あるいはそれを得意とする俳優を「やつし方」という。
 この演技で大切なことは、ほんとうにやつれた姿になってしまってはただの卑俗(じつ事)に堕してしまう。気品や鷹揚さを失うことなく卑俗を演じなければならないという、いわば「貴」と「賎」との二重性(ダブルイメージ)の演技にある。
 じつは歌舞伎の「やつし事」の起原は、貴種流離譚と呼ばれる物語にある。『伊勢物語』や『源氏物語』はいうまでもなく、さきに例としてあげた「虫めづる姫君」もその系譜に属している。身なりもかまわず、醜い虫けらと戯れながらも、姫の高貴さが滲みでるところにこの小さな物語の眼目があるのだ。
 要するに、「貴」が「賎」を演じるのが「やつし」なのであり、ほんとうの「貴」がいかにうまく「賎」を演じたところで、おのずからその気品は現れずにはいない。そのような二重の演技をせよ、というのが歌舞伎の「やつし事」の基本にほかならない。
 ところが、「やつし方」つまりそれを演じる歌舞伎役者にしてみれば、この演技の二重性の背後に、もうひとつの二重性が生じていることになる。なぜなら、そうした「貴」を演じるのは役者という「賎」だからである。
 卑賤な身分である役者は、顔をつくり扮装を施すことによって「貴」なる身分を演じるのである。
 このように、「やつし」という言葉に「化粧をする」という本来の意味とはまるで正反対な意味が生じるのは、歌舞伎の「やつし事」に由来していると考えてよいだろう。
 それにしても、あの『柳多留』の「やつさずに濡れ事をする新五郎」という狂句は、この二重の二重性をじつに見事に表現したものといえる。というのも、この句には、「やつし方」の名優生島新五郎は舞台の上ではなく(「やつさずに」)大奥女中江島とほんとうの濡れ事(「やつし事」と同義)をしたために、三宅島への遠島という現実の「やつし」を演じてしまった。つまり、「やつさない」ことが「やつす」ことになった、というアイロニカルな含意(洒落)が込められているからである。
 この狂句は、実際の「江島生島事件」からちょうど半世紀後に詠まれたものだが、当の事件に材をとった芝居は徳川時代には禁じられたものの、明治期に入ると河竹黙阿弥作をはじめ、数多くの「江島生島物」が次つぎに生みだされた。その理由は、現実と虚構を往還する「やつし」の特異な二重性が、すぐれた劇作家たちの創作意欲を刺激してやまなかったからにほかならない。






  1. 2011/12/26(月) 10:17:37|
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見立てと日本人14

見たては類似性を媒介とした思考法か

 これまで「見立て」について書かれた研究論文の数はけっして少なくはない。しかも、「見立て」が日本文化のさまざまな領域に通底する発想法であるため、当然ながら、その研究分野も多岐にわたっている。
 ところで、それらの研究にことごとく共通しているのは、「見立て」が「類似性」との関連で論じられている点である。
 たとえば、古いところでは、江戸戯作論の権威中村幸彦氏の、「見立ての微妙は、一見似て居ない或は似て居ないと一般に思はれて居る物或は点に就いて類似を見出す事にかかって居る。」という、その後しばしば引用される有名な一節がある(「見立て」『国語、国文』)1944年)。
 また、最近では、日本古典文学とりわけ和歌に研究に西欧レトリック論を導入することで精力的な業績をあげている尼ヶ崎彬氏の、次のような定義がある。
 「見立てとは、常識的な文法や連想関係からは結びつかぬものを、類似性の発見によって(ないしは類似性の設定によって)結びつけ、それによって主題となってものに新たな《物の見方》を適用し、新しい意味を(または忘れられていた意味を)読者に認識させるものである」(『日本のレトリック』1988年)。
 先の中村氏の引用個所とよく読み比べてみれば、同工異曲であることは一目瞭然であろう。
 ちょっと目先をかえて、国文学関係以外の文献をのぞいてみることにしよう。
 わが国を代表する建築家のひとり磯崎新氏は、そのタイトルも「見立ての手法」というエッセイのなかで、次のように定義している。
 「見立ては、類似性(アナロジー)を媒介にして、連想(アソシエーション)を喚起し、対象物を分節化(アーティキュレーション)していく手法である」(『見たての手法』1990年)。
 日本庭園の成り立ちからわが国の文化を縦横に論じたこのエッセイは、当時はやりの構造主義言語学の影響下に書かれたもので、「分節化」などというちょっと未消化な語を用いている点をのぞけば(注1)、実践家らしい刺激的な知見に富んでいる。
 だが、「見立て」を「類似性」との関連で論じている点では、先にみた二人の国文学者と同じである。
 ところで、つい2年前、『日本の美学』という雑誌に「見立て」の特集があった。その巻頭に、西洋美術史家の高階秀爾氏と文化類学者の山口昌男氏の対談が掲載されている。
そのなかで、この国の知性を代表する二人が西欧と日本の比較について語っているくだりがある。その会話じたいがとても日本的で面白いので、そのまま再現してみよう。
 高階ー西欧では、比喩というのはメタファーですね。比喩と「見立て」、いったいどこが違うんでしょう。
 山口ー「見立て」の方はすりかえ、うつしかえがあるのです。似ているということを手がかりにして、それを違ったふうにもっていく。引用は形を変えないでそのままもってきて、コンテクストの中において、周りとの関係で、意味が変わるような装置ですが、「見立て」は、似ているところを残しながら、形を全部変えてしまって、距離感をつくりだすというようなところがあると思うのです。
 この会話がなぜ面白いかというと、高階氏の方はメタファーと見立ての相違について尋ねているのに対して、山口氏はそれこそ質問を「すりかえ」「うつしかえ」て、引用と見立ての違いを語っているからだ。
 西欧人の間では、こういう対話は生じない。これは俳階連歌の伝統に通じる、日本人に特有なコミュニケーション様式の会話なのである。つまり、西欧と日本の比較のために高階氏が提示した「メタファー」を、山口氏は、「引用」というテーマに移し替えることによって両者の相違をより明確にしようとしている。けっして論点を曖昧にぼかしているわけではないのだ。そして、こうした会話の進行こそ、俳諧でいう「見立て替え」という付け句の作法にほかならない(注2)。
 もっとも、文化人類学者の山口昌男氏の「見立て」の議論にも、やはり「類似性」への言及がみられることはご覧のとおりである。
 さて、このあたりで定義尽くし(これはこれで見たての技法の一種なのだが)はおしまいにしておこう。「見立て」は、さまざまな分野の研究者が異口同音に「類似性」と結びつけられて論じてきたのである。
 けれど、はたして私たちは、あるものを別のものに見立てるとき、ほんとうに「類似性」を手がかりにしているのだろうか。
 私の考えでは、否である。
 たしかに、春信の見立て絵をはじめ、これまで列挙した数々の作品を見ると、「見立てたもの」と「見立てられたもの」の間には類似性が見受けられるように思われる。
たとえば、「見立大黒天」(図版参照)という絵は、打出の小槌をもって俵の上の乗った大黒様の替わりに若い娘が同じ格好をした姿を描いたものだ。大国様が女に替えられただけで、その他の小道具は同じなのだから、「類似性」はたしかに歴然としている。
 だが、見誤ってはいけない。その類似は〈結果〉であって、製作者の〈意図〉の段階いいかえれば発想プロセスにあっては「類似性」はたいして重要ではないのだ。
 私は以前に、春信の「見立寒山拾得」などの見立て絵は子どもたちのごっこ遊びに近い発想だと述べたことがあるが、ごっこ遊び(「見立て遊び」とも呼ばれる)を観察すれば、たやすく理解できよう。
 たとえば、子どもたちが一本の縄を使って電車ごっこをする時、縄と電車の間に、いったいどのような類似性があるといえよう。
 このことは、私自身、横綱若乃花を蝶に戯れる獅子に見立てた化粧回しのデザインを考案する際に経験していることである。
けっして類似性を媒介にしたわけではない(連載第1回参照)。
 それでは、なぜ、さまざま分野で、見立ての定義として「類似性」の「発見」や「媒介」が言い立てられてきたのであろうか。
 答えは簡単である。鑑賞者の立場からなされた議論だからである。要するに、後知恵なのだ。気をつけないと、たとえ実作者であっても、こうした後知恵にひきずられてしまう。もっとも、時には鑑賞者の視点も大事であることはいうまでもないが。
 あるものから別のものが生み出される、その生成プロセスを真に解明しようとするならば、それこそさまざまな実作者の創造の現場、その脳内イメージの世界にまで肉迫しなければならない。
 私がこの連載エッセイで企図しているのは、単なる日本人論でも日本文化論でもなく、まさにそのことなのである。

(注1)「分節化」という語は「類似性」ではなく、「差異性」についてのキーワードだからである。
(注2)新しい技術開発の現場で、技術者同士が交わしてる会話がこのような俳諧の「付合」(つけあい)に似たコミュニケーションとなることは注目に値する。この問題はいずれ考察するつもりである。



  1. 2011/12/26(月) 10:00:59|
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見立てと日本人11

和菓子と見立ての文化
 
日本の見立て文化をもっとも代表するものは何かとたずねられたら、即座に私は、和菓子だと答えるだろう。

残念ながら、これは私の発見ではない。今からちょうど140年前、幕末の長崎にやってきたロシアの遣日大使プチャーチンの秘書官ゴンチャロフが、その旅行記「フリゲート艦パラルダ号」(部分訳「日本渡航記」、1858)の中で、指摘していることである。

幕府の役人との会見のさい、ゴンチャロフは出された干菓子のデリケートな模様に驚いている。そして、菓子にさえも、日本人がこの世の事物のさまざまな形象を細密に「うつし」取ろうとしている事実に、この国の文化の高度な発達を読みとっている。もっとも、その無益さにいささか呆れ顔をしながら、ではあるけれど。もっとも、彼のみごとな観察は、外部からのものである。
私たち日本人がその干菓子をどのように味わうか、ついにゴンチャロフには理解できなかったにちがいない。菓子に写された山川草木の細密なかたちや模様「無益」といってしまっては、実もふたもないからである。
文化とは、ほんらい「何かの役に立つもの」などではない。結局のところ、ゴンチャロフは菓子職人の高度な技術に目を奪われただけなのかもしれない。
同じ和菓子に日本文化の本質を読み取ろうとする点において、私はゴンチャロフと一致している。けれど、私が語ろうとしているのは、彼とは違って、私たち日本人の内面からの観察にもとづいている。続けよう。

ところで、日本料理は目で味わうものだ、とはよくいわれることである。
おつくりや盛りつけという言葉に山の見立てが込められていることは、この第一回目に述べたが、和菓子は目で味わう以上のものであって、これほど、わが国の文化の本質が今もなお生きているものはない、とあらためて思うのである。
和菓子屋さんの店先に、たちどまってみるといい。
ショウケースには、店代々、連線と受け継がれた四季折々の菓子が並んでいるだろう。また、中には、主人が創意工夫を凝らした創作和菓子もあるだろう。しかし、しずれにしても、それらの和菓子には、単なる見た目の色かたちの美しさと味以上の何かが宿っているはずなのである。
だとえば、燕子花(カキツバタ)をかたどった、小さな干菓子があったとする。
その色かたちと味のどれも非の打ちどころなく素晴らしかったとして、その菓子に込められた深い味わいはそれ以上のものなのである。
この干菓子を味わうとき、私たち日本人は何よりもまず尾形光琳の六曲一双の「燕子花図」や「八橋図」のほのかな気配を味わうとともに、さらにはそれらの絵の元とされる伊勢物語の一場面をも同時に味わっているのである。
今さら引用するのも気が引けるが、その場面とは、都を追われた主人公が三河の国の八橋という所にたどり着き、沢のほとりにかきつばたの花が咲くのを見て、次の歌を詠むくだりである。
から衣きつつなれにしつましあれははるばるきぬる旅をしそ思ふ
このように、私たち日本人は、小さな和菓子ひとつにも、時代をこえて幾重にも重なりあい統合された意味と感覚を味わうべく習慣づけられているのだ。
ゴンチャロフのように「無益」といってしまえばそれまでだが、たとえつかの間といえども、時空をこえて多層にあやなす意味と感覚の共同世界に遊泳することの中に、すぐれた文化の特有さを感取することができるのである。
このことを、逆の視点から辿ってみることにしよう。
まず、歴史的実在の人物、在原業平を主人公にした一種の貴種流離譚である物語から絵巻が生まれ、時代が下って文学がら独立した「燕子花図」や「八橋図」をはじめとする屏風絵や扇面図が描かれ、さらには着物や帯の図柄となり、やがては一個の干菓子をも生みだすにいたるー
このように、文学、絵画、工芸そして好品というあらゆるジャンルをこえて連線と貫流する文化生産にメカニズム、まさしく、これこそが「見立て」にほかならないのである。
さて、物語から干菓子にいたるまでの「見立て」の系譜を辿ってみるとき、私たちはさらに興味深い事実に気づく。まず第一に、私たちの絵画芸術が物語という文学テキストから生まれているという事実であり、第二は、その物語絵の全体からいわばクローズアップと大胆なカットの手法によって部分を独立させた絵画や工芸品が生まれたという事実である。
これらは、今日でいうインターテクスチュアリティの問題であり、人間の創造とは「あるものを別のコンテクストに置き換える」ことであるという原理の、わが国のすぐれた事例といっていい。
ちなみに、西欧絵画が構図の大胆なカットを学ぶのは印象派やアールヌーボーの時代であり、これらのエコールが浮世絵や琳派から深い影響を受けていることはいうまでもない。いわゆるジャポニスムであるが、このテーマについては、いずれまた機会をあらためて話したい。


ここで、琳派の祖、俵屋宗達の六曲一双の「蔦の細道」が修復なって
相国寺承天閣美術館で、等伯や若冲の屏風絵とともに公開されていることを付記しておこう。
「蔦の細道」の画面に書かれた烏丸光弘の書は、蔦の葉を見立てたと言われている。

http://www.shokoku-ji.jp/j_now.html


  1. 2011/12/20(火) 12:09:17|
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見立てと日本人16

 
「やつし」の起源あるいは神々の見顕わしについて
 
 秋になるとこの国のどこでもその姿を見かけることができたのに、今日ではもうすっかり目にすることもなくなったもの。といっても絶滅した野鳥のことではない。案山子(かかし)のことである。
 「ミノ笠つけて朝から晩までただ立ちどおし」と童謡に歌われた、ちょっと哀れでユーモラスなその姿を、私たちは失って久しい。
 なぜ、案山子は日本全国どこでもあのようにボロ着スタイルだったのだろう。私たちは、あの姿を、日本の農村の貧しさの象徴だったなどと誤解をしていたのではないだろうか。
 なんと、あれは日本の神々のやつし姿だったのである!(注1)。
 さて、歌舞伎の「やつし事」の起源が『伊勢物語』や『源氏物語』などの貴種流離譚と呼ばれる物語にあるが、その源流をさかのぼると、スサノオノミコトの高天原からの追放劇にいきつく。
 天界を追われて地上を放浪し、やがてこの国の祖神となる、あのすさぶる神の姿が笠と蓑というスタイルなのである。『日本書記』は、スサノオノミコトの姿は「青草を結び束ねて笠蓑となし、宿を衆神に乞う」と記述している。
 このスサノオ神話に日本文学の起源をもとめ、これを異種流離譚と名づけたのは折口信夫であった。神は笠をかぶり蓑をまとって流浪する、と指摘しているのである(『国文学の発生』)。
 もっとも、神々は人間の前にその姿を貧しい身なりによって見顕わすというのは、わが国の神話だけにかぎったことではないようである。
 ギリシャ悲劇の『オデュッセイア』でも、英雄オデュッセウスは老いた乞食姿で豚飼いのエウマイオスに施しを受ける。ホメロスは、「神々は異国の人に身を変え、ありとある様に身をやつして、人間の野望と分別を取り調べに町々を歩きまわる」と語っている。こうした神話や伝説は世界中いたるところに伝承されているにちがいない。
 もちろん笠と蓑というのは日本独自のスタイルであろう。それにしても、「貴」が「賎」を演じる「やつし」そのものが神々のファッションを起源としているとは、神々もなかなかの役者ではないか。
 ところで、「やつし」が神々の行為を起源とするとすれば、わびやさびを好む日本人の美意識はこの行為をとりわけ重視することによって成立しているといっていい。
 室町時代に確立された茶の湯が中国を範とする真・行・草という様式の中から、もっとも格式の整った「真」をやつしくずした「草」を最高位とするのも、また、中世芸能において「真」の格式を体得した名人による破格の演技を「闌位」と呼んで至高の美とみなしたのも、神々の「やつし」行為をなぞらえたものとすればもっとも納得がいく(世阿弥『至花道』)。
 ところが、「見立て」という行為そのものの起源もまた、神々のわざに帰するのである。


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  1. 2011/12/18(日) 12:39:23|
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11月19日舞台評2011

林檎の木の真ん中の心臓

作:大内卓
演出:キタモトマサヤ

かけがえのない日常への賛歌


この秋、「演劇の都(みやこ)」をうたう京都が、第26回国民文化祭の一環として現代劇の祭典を行なった。
 そのメインイベントの企画委員会プロデュース公演「林檎の木の真ん中の心臓」(11月2,3日、京都府立文化芸術会館)は、最年長が70代、最年少が10代と、京都で活動するさまざまな年代の役者たち男女各11名による群像劇である。この年令構成そのものが芝居のテーマとマッチしている。

 舞台は太平洋に浮かぶ南の島の小さな村落。そこに暮らす八つの家族の物語が、隣り合う所帯2組ずつ、1幕4場で展開する。

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  1. 2011/11/19(土) 17:19:08|
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元永定正さんのこと

元永定正さんが亡くなった!10月3日のことだという。

訃報を知ったのは、予約注文していた絵本『おおきい ちいさい』(福音館書店)がAmazonから届いたその日だった。

元デザイナーで今はお弁当屋をやっている佐藤信彦さんのお宅で、舞茸と零余子(むかご)の入ったご飯をご馳走になっている時だった。美味しい料理に舌鼓を打っていると、唐突にも彼が告げたのだ。味がわからなくなってしまった。佐藤さんが悪い!(ちなみに、佐藤さんの父上も祖父も著名な陶芸研究家だが、やっと彼の代で器の中身を仕事にしたのだ。)

元永定正という現代画家のことを知らない人のために、ちょっと紹介する。1950年代、日本人アーティストが世界的に知られるようになったのは元永さんや白髪一雄や村上三郎など、吉良治良をリーダーとする神戸在住の「具体」という前衛グループをもって嚆矢とする。当時、現代美術はアンフォルメル時代で、フランスの批評家ミシェル・タピエによって評価されたのだった。ちなみに、当時、勅使河原蒼風らの前衛いけばなを評価したのも彼である。

さて、元永さんとは、三重県の名張出身の女将さんがやっている大阪の呑み屋(いつも帰りは泥酔で今もって名前も場所もわからない)で、博報堂の泉田隆さんに紹介されたのだった。私がお会いしたのはまだ70歳代の頃だったと思う。黒々とした髪、飄逸な人柄の元永さんは、酔っても顔に出ることなく杯を重ねながら、私たちの他愛のないおしゃべりに付き合ってくれた。店に行く度に元永さんと会うのは、伊賀出身の元永さんが常連だったからのようだ。

飄逸という点では、この店で、泉田さんといつも一緒だった絵描きのまやこうすけさんも同じだった。彼は、持参の筆で、たまたま同席の女性の似顔絵を書くのが趣味だった。どんな女性であれ、まやさんの描く絵は決まってふくよかで、私はひそかに仏画と呼んでいた。そのまやさんも今は療養中だ。

元永さんのことを思い出していると、走馬灯のように思いがめぐる。けれど、ここで自慢しておきたいのは、神戸ビエンナーレがスタートした2007年に、そのポスターの絵を元永さんに依頼したことだ。港神戸にふさわしい2枚を書いてくださり、Tシャツのデザインにも使わせてもらった。いずれ、このブログにUPするので待っていてほしい。(1枚見つかったので、アップしました!)



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  1. 2011/10/21(金) 20:11:11|
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10月8日舞台評「ベンガルの虎」

新宿梁山泊第45回公演「ベンガルの虎」
 作:唐十郎
演出:金守珍


激しい時代の熱風は今も伝わるか?


 新宿梁山泊のテントツアー2011が大阪からスタートした。場所は、空中庭園で知られる梅田スカイビル下の広場である。初日の夜は雨だったが、連結型の超高層ビルと雨に濡れて黒く光る紫テントという取り合せが、これから始まる芝居を予感させる。

 演目は、唐十郎の最高傑作といわれる「ベンガルの虎」(1973年初演)、1990年代初めから、唐作品を数多く演出してきた金守珍がこの大作(上演3時間!)にどう挑むか。いやむしろ、あの「激しい季節」(当時、麿赤児が発行していたアングラ新聞名)の混沌を体現したこの舞台が、現在の若者たちの感性にどう訴えることができるか。 同時代を生き、暗黒舞踏にも深く関与した私の関心は、その一点にある。ロンドンやニューヨークの若者の騒乱に比べて、この国の若者はなんとおとなしいことか。

 劇団員に案内されてテントの中に入ると、舞台はうらさびれた路地裏で、奥のアーケードには「牢獄横丁」の文字、上手の商店に「馬骨印房」の看板、下手には公衆便所がならぶ。東京は錦糸町界隈という設定だ。

 さて、ストーリーだが、開演早々、男優から、「物語は荒唐無稽だから、スジを追わないで、その場その場を楽しんで」の前口上があって、客席はどっとわく。だが、もちろん、物語はある。それも、悪夢の中で経験するようなストーリーが――

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  1. 2011/10/12(水) 19:04:53|
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オバマ氏はなぜアメリカ人の心をとらえたか?

オバマ氏はなぜアメリカ人の心を捉えたか?                    (2008年「墨鴨交信」より再録)

 1
今、私は、バラク・オバマ氏の著書『合衆国再生(プレジデント社、2007)を読み終えたばかりだ。全世界が熱狂に包まれたといっていい2008年11月4日、シカゴでの大統領選勝利宣言を聞いて、彼がこれまで書いたものやスピーチを調べてみようと思ったのだ。

現在、この未曽有の金融・経済危機のなかで、人びとの関心は、オバマ次期大統領政権の経済政策や対外政策がどうなるかという話題に躍起となっている。けれど、なぜ、彼がかくもアメリカ国民とりわけ若者の心を捉えることができたのか。これはしっかりと検証しておかなければならないだろう。

選挙結果の分析によれば、投票した若者の3人に1人がオバマ氏に一票を投じたという。勝利演説の中で、オバマ氏は語っている。

「若い世代は無気力だという神話を拒絶した若者たちが、少ない報酬の、しかも睡眠時間のもっと少ない仕事に自分を捧げるため、家と家族から離れて参加してくれた」、と。

長い選挙戦で、FacebookというSNSを駆使して全米各地でのオバマ候補の集会への参加を呼びかけたのも彼ら若者たちだった。

ところが、バラク・オバマ氏の『合衆国再生』を読みながら、思わず目を見張ったくだりがあった。それは、オバマ氏が1996年から2004年1月まで務めたイリノイ州の上院議員だった頃のエピソードである。

 彼は、次のように述べている。「イリノイ州の上院で民主党が過半数を回復した年、わたしは、死刑事件の取り調べと自白にビデオ録画を課す法案の発起人になった。(中略)当時のイリノイ州の死刑事件のさばきには、過失や警察のいかがわしい戦術や人種的偏見や不誠実な法の実務がはびこっていて、13人の死刑囚が容疑を晴らして釈放され、共和党の知事が全死刑囚の刑の一時執行停止を決定したほどだった」。

オバマ氏はこれらの日付を詳しく述べていないが、じつは、この死刑執行の一時停止は2001年1月、当時のジョージ・ライアン知事によるものだ。また、民主党が州議会で過半数となったのは2003年のことだ。

さらに詳しくいうと、2003年1月13日に任期満了で引退するライアン知事は、その2日前、ノースウェスタン大学で、今度は全死刑囚167人の一括減刑を発表する。なぜ、この大学であったのかは、あとで分るだろう。ともあれ、元来、強固な死刑存続論者だったこの共和党知事にそのような行動をとらせたのは、彼が設置した死刑制度調査会の報告によって、イリノイ州内の多数の死刑囚の無実が明らかになったからだ。

ところが、興味深いことに、オバマ氏は次のように述べている。「死刑制度改正の機は熟しているかのように見えたが、にもかかわらず、私の法案に通過のチャンスを与える人はほとんどいなかった」、と。

州の検察や警察の反対はいうまでもなく、じつは民主党の新知事ブラゴジェビッチも当初、彼の提案に反対だった。そればかりでなく、死刑廃止論者はオバマ氏の提案が彼らのめざす理想を損なうといい、彼の同僚議員たちも「すこし犯罪者に甘いのではないか」といって尻込みしたのだ。

オバマ氏がこの状況を打開するためにとったのは、「深刻な意見の相違には焦点を定めず、全員が共有しているはずの共通の価値」について話合うことだった。この場合、その価値観とは、「無実の人は決して死刑囚監房にいるべきではなく、死刑に相当する罪を犯した人は決して自由の身になるべきではない」ということだ。

最終的には、彼の法案は修正が加えられ、「関係するさまざまな陣営の支持」を得て、イリノイ州上院を全員一致で通過する。

オバマ氏は、「政策の立案にこうしたアプローチをとったからといって、かならずうまくいくとは限らない」と語り、失敗例も紹介している。

けれど、このエピソードは、民主党か共和党か、あるいはリベラルか保守かというイデオロギーの違いをこえて、だれもが分かち合える「共通の価値観」を掘り起こし、それにふさわしいアクションを起こすというオバマ氏の特徴をものがたる好例として、とても興味深いものだ。具体的な問題をだれもが理解可能な命題に簡略化するのは彼の分析的理性のなせるわざだ。さっき、このエピソードに日付が明記されていないと言ったけれど、オバマ氏の著書が年代記的な記述よりも、彼の方法論とその実践のしかたに主眼があるからだ。

さて、冒頭で思わず目を見張ったといったのはこのエピソードのことだが、私が驚いたのはこの事実そのものではない。死刑事件の取り調べにビデオ録画を課すという彼の法案を発意させた、多数の死刑囚の無実の判明という事実の、その発端となった出来事のことだ。

アメリカ全土では周知の、だからオバマ氏があえてそのことに触れなかった、もう一つのエピソードがある。イリノイ州はおろか全米を震撼させた事件だ。

それはオバマ氏の法案の4年前、1999年3月、16年半もの間死刑囚として刑務所に閉じ込められていた一人の黒人青年の無罪が確定するという出来事だ。しかも、彼の無罪を証明したのは冤罪専門の弁護士ではなく、法律知識もない6人の若者たちによってだったという事実だ。共和党のライアン知事がすぐに死刑制度調査委員会を発足させ、ほかにも8人の冤罪が明らかになるのも、彼らのおかげだった。

 さて、この若者たちは、ノースウェスタン大学4年生で、ジャーナリズム学部のデビッド・プロテス教授の授業で、殺人事件の裁判記録を調べ、殺害現場に行き、そして目撃者に会うことによって、黒人青年の冤罪を明らかにした。そればかりか、真犯人をつきとめさえしたのだ。その経緯は、2003年、NHKのBSプライムタイムで『死刑を中止させた若者たち』というタイトルで放映されたドキュメンタリー番組で取りあげられている。

歴史に「もしも」はありえない。けれど、私は、もしもこの若者たちがジャーナリズムの授業の課題でこの冤罪事件の調査に取組まなかったならば、とつい考えてしまう。そうだったとしたら、イリノイ州上院議員のバラク・オバマ氏の法案はありえず、彼はその後ちがった経歴を歩んだろう。「北京の蝶」理論よりははるかに確かだ。

 若者の支持によってアメリカ大統領となったオバマ氏だが、それ以前に、彼の輝かしいキャリアそのものが若者たちのなし遂げた成果の上に築かれていることに、私は驚いたのだ。そして、そうした若者の心に共鳴して行動を起こす彼だからこそ、また若者の心をとらえることができたにちがいない、と私は確信したのだった。



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  1. 2011/09/08(木) 17:16:20|
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2000本のチューリップ

 
2000本のチューリップ 

 先日、総文のゼミ卒業生から、お別れにバラの花束をいただきました。20本の花枝を水切りしながら、私は16年前のことを思い出しました。
 あの年、阪神淡路大震災によって、女学院も大きな被害を受けました。実際の被害以上に大きかったのは、マスコミによる報道被害でした。崩れた文学館の屋根瓦のカラー写真が朝日新聞や読売新聞の紙面に大きく掲載されたり、「大学入試どうなる?」という大見出しで間違いだらけの記事が書かれたりして、受験生とその家族の不安を煽ったのです。この記事が載った1月22日は日曜日でしたが、デフォレスト館の事務室の電話は鳴り続けました。受話器を取ると、「女学院はどうなっているのだ」という不安と怒りのまじった声が響くのでした。
           

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  1. 2011/09/07(水) 08:37:26|
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