Murakami Journal
演劇批評を中心としたエッセイ

1924人間機械

1924人間機械

やなぎみわ:演出
あごうさとし:脚本


  まず芝居のタイトルに注目してほしい。
  1924、この年は関東大震災の一年後であり、わが国の小劇場演劇の草分け、築地小劇場が幕を開けた年である。やがてここを舞台に、新劇運動が小山内薫と土方与志を中心に繰り広げられた。
  と同時に、ドイツ留学から帰国した23才の前衛アーティスト村山知義がその舞台美術家としてスタートし、その後、戯曲家・演出家として、さらには舞踏家としても華々しい活躍を展開した年でもある。
  そして「人間機械」とは、大正から昭和にかけてまさに時代の寵児だった村山の、最初の小説集(1925)の題名である。
  昨年4月、神奈川県立美術館葉山を皮切りに、京都国立近代美術館、KAAT神奈川芸術劇場と「やなぎみわ演劇プロジェクト1924」と銘打たれた三部作の最後を飾るのが、ふたたび京都で上演されたこの舞台なのである。
  演出を担当したやなぎみわが、ヴェネチア・ビエンナーレの日本代表をつとめた現代美術界のカリスマ的存在であり、演劇作品に意欲を示していることは、すでに2年前、演劇と美術の融合現象として、この欄で紹介した。
  だが、彼女の試みのまさに先駆者である村山知義を扱った今回の舞台は、美術と演劇の関係そのものを問う作品となっている。しかも、何という符合だろうか。震災から一年という時代状況さえ一致している。
  美術館はふつうホワイトキューブと呼ばれ、白一色の静謐な空間である。そこを舞台に、現代舞踊家・升田学が村山役を演じるというか、踊る。彼はひと言も発せず、観客は耳当てイヤホンを通して、村山のセリフを別の声(あごうさとし)で聞く。いわゆるパフォーマーとスピーカーの分離である。
  奇抜なのは、村山を紹介し解説する案内孃(山本麻貴)の口調が、まるで見世物小屋の口上のように凶々しいことだ。しかも案内孃は一人ではなく、同じ顔をした彼女たちは村山を操り人形のように扱い、マネキンのような彼女たちこそ人間機械、主役なのだ。
  私は以前、やはりこの欄で、芸術を芸能よりも上位とみなす近代以降の考え方を脱するべきだと述べたことがある。明らかに、やなぎみわは美術館そのものを見世物小屋へと回帰させている。私は、この舞台を観ることによって、個人主義に依拠する前衛芸術から出発しながら、深く民衆の感情構造に根ざす芸能をめざした村山知義という存在を再認識するとともに、やなぎみわの今後の活動に目が離せなくなった。




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  1. 2012/04/23(月) 06:26:00|
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見立て考

見立て考

 見立てとの出会い
仕事がら、さまざまな職業の人びとの話を聞く機会が多い。そうした長年にわたる経験のなかで発見したことがある。創造的な人間の見分け方である。といっても、けっして難しいことではない。
数多くの特許を取得している老発明家から世界的な評価を得ている画家にいたるまで、クリエイティブな仕事にたずさわっている人びとに共通していることがある。
その人たちと話していると、たとえ話がじつに多いのである。
私のいう創造的人間の見分け方とは、これである。つまり、たとえ話をするのが好きな人間かどうかということである。
では、たとえ話と創造性の間にはどんな関係があるのだろうか?
この疑問に答を見つけようとして出会ったのが、「見立て」であった。私が『見立て発想法』というCD=ROMの第一版を制作したのが一九九八年だから、もう十四年以上も前になる。

イメ―ジの転換
たとえ話とは、複雑な内容を別の身近な事柄によって分かりやすく説明することで、いわゆる比喩表現の一種である。たとえ話をする時、話し手の脳内で起こっているのは、一つの分野から別の分野へと飛躍するイメージの転換である。
これをおこなうことから、数多くの発明がなされている。現在のパソコンの形状は、それ以前のワープロを原型としているが、これは「たとえば新幹線の中で幕の内弁当を開くような」という技術者たちの会話の中から生まれている。また、使い捨て刃のカッターナイフが板チョコからヒントをえて製品化されたこともそうである。こうした事例は枚挙にいとまがない。
柔軟な発想とは、このようにイメ―ジの転換をおこなうことであり、それがあたかも偶然になされる時、インスピレーションとかひらめきとか呼ばれるのである。
創造力のゆたかな人間がたとえ話を好むのは、ふだんからこのイメージ転換の訓練を無意識のうちにおこなっているからだ、というのが私の持論である。
私たち日本人は、古代から、あるものを別のものに置き換えて表現することを「見立て」と呼んできた。この言葉が最初に文献に現れるのは『古事記』の冒頭である。あのイザナギとイザナミの婚姻のくだりに、「天の御柱(みばしら)を見立て八尋(やひろ)殿(どの)を見立てたまひき」とある。国生みという壮大な創造行為のキーワードとなっているところに、見立てが日本人の創造性と深くかかわることが示唆される。

 メタファーと見立て
とはいえ、あるものを別のものになぞらえるのは人類普遍のことであって、英語ではそうした言語表現をメタファーという。「頭を雲の上に出し」とは有名な小学唱歌の出だしだが、英語でも山の頂上をtopといい、頂上近くのスロープをshoulder、山麓をfootという。いずれも山の容姿を人の体にたとえている。
古代ギリシャ人は、星座に神話上の神々やそれにまつわる動物や器物の名前を与えている。天の川や銀河という言葉もメタファーである。
万葉集巻七に――
天の海に雲の波立ち月の船 星の林に漕ぎ隠れ見ゆ
という歌がある。柿本人麻呂が七夕の夜、彦星が織姫に会いにゆく故事にちなんで詠んだといわれる。空を海に、雲を波に、月を船に見立てて、ダイナミックで荘厳な宇宙の調べを奏でている。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』あるいはそれに触発された数々のアニメーションの源泉というべき歌である。
ところで、振りかえってみると、この文章じたい数多くのメタファーを含んでいることに気づく。いや、すでにこの「振りかえる」という表現そのものがメタファーにほかならない。現代の認知言語学によれば、言語そのものがメタファーで成りたっている。

 見立てはメタファーの基礎
では、見立てとメタファーは、どのような関係にあるのだろうか。
興味深い事実がある。わが国を代表する認知言語学者は、メタファーを、次のように定義している。
「メタファーとは、より抽象的で分かりにくいカテゴリーに属する対象を、より具体的で分かりやすいカテゴリーに属する対象に見立てることによって、世界をよりよく理解する方法なのである」、と(瀬戸賢一『空間のレトリック』)。
ちょっと難解だけれど、最初に述べたたとえ話の定義とあまりかわらない。
この定義の中で注目したいのは、メタファーという言語表現がなされる前に、「見立てる」という行為、いいかえればイメージを転換する作用が先行していることである。要するに、見立てはメタファーの基礎をなしているのである。
さて、私が以上のようなことにこだわるのには訳がある。
日本人は西欧人に比べて抽象的思考が苦手だとよくいわれる。その理由は、日本語が西欧言語のように抽象的な言語表現にとぼしいからである、と。
私はこれに異議を申し立てたい。たしかに、明治以降、この国が西欧文化の翻訳に躍起となってきたのは、この抽象的思考に習熟し、近代化をなしとげるためであった。


  日本人の抽象的思考

しかし、私にいわせれば、日本人は抽象的思考に長けている。ただ私たち日本人の抽象的思考は、西欧人のように言語表現にではなく、さまざまな視覚表現の領域において発揮されてきた。そのためになかなか気づかれなかったのである。
たとえば、日本と西欧の紋章を比較してみよう。イギリスの国章が獅子とユニコーンを具象的に描いたものであるのに対して、ウリの切り口を抽象化した木瓜(もっこう)と呼ばれる家紋をはじめとして、わが国の紋章はきわめて簡潔な抽象美にみちている。フランスのルイ・ヴィトンのモノグラムが、江戸時代の家紋に触発されたデザインであることはよく知られている。
さらにいえば、十九世紀後半、写実主義に行きづまった西欧美術は、日本の浮世絵版画や琳派の大胆かつ抽象的な構図や線描に影響を受けて、印象派やアールヌーボーを生みだした。これは美術史でジャポニズムと呼ばれるが、今日のマンガやアニメなどジャパニメーションと呼ばれる潮流に継承されている。
これらの例からわかるのは、日本人は、言語以前のイメージ思考において抽象化を発揮する民族なのである。ここで、見立ての代表例として挙げられることの多い竜安寺の枯山水の石庭が、いかに抽象化されたデザインであるかを思い出してほしい。
「はじめに言葉(ロゴス)ありき」とは旧約聖書の冒頭だが、私たち日本人は古事記に見られるように「はじめに見立てありき」である。

一座建立
見立てが、俳諧連歌や戯作などの文芸、建築庭園や名勝地、美術工芸からいけばなや茶の湯、能狂言や歌舞伎や落語にいたるまで、日本文化のあらゆる領域を縦横につらぬく創造技法であることは、すでに多くの人たちが指摘するところである。
ここでは、あまり触れられることのない食文化の見立ての例を挙げることにしよう。
まずは、お菓子の見立てについてである。
一八五三年、ロシア船艦が長崎に寄港した時のこと、小説家としても知られる提督秘書官ゴンチャロフは、幕府の役人との会見のさい、出された干菓子の繊細な美しさに驚いている。草花に見立てた干菓子だった。
洋菓子で知られる神戸凮月堂に、源氏物語五四帖を見立てた和菓子がある。絵巻の中の数々の図柄を切りとって、茶会用の菓子に仕立てられている。
日本料理はまさに見立ての詰合せである。お正月に出されるおせちは、海老(えび)が長寿を、キントンが黄金を、数の子が子孫繁栄を、椎茸の煮しめが陣笠つまり武勇をというように、祝事にふさわしい見立てとなっている。
料理の盛りつけにも見立ては見られる。杉盛りや俵盛り、さらには器じたいを庭に見立てたり、盛りつけられた料理をシテ、ワキ、ツレと呼んで能楽に見立てたりする。 日本料理は目でも味わうといわれるが、それ以上なのである。源氏の菓子もそうだが、季節ごとに一の膳、二の膳と趣向が凝らされる懐石料理は、そこに一編の物語が仕組まれている。
なぜ、日本料理にはこうした見立てがふんだんに供されるのか。それはいわゆる、食事をともにする人びとの会話をもり立て、たがいにこの国の文化を共有していることの喜びを味わうためである。
最後になるが、メタファーは言語学がすでにその分類体系を完成している。けれど、見立てについては、その技法の分析すらなされていないのが現状である。見立ての研究はまだ始まったばかりなのである。




  1. 2012/04/03(火) 11:41:02|
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GQ書評『廃棄の文化誌』(ケヴィン・リンチ著)

もう20年前の書評だが、最近、原発問題を考える必要があって、思い出したので再録してみた。

GQ書評5月号1993
『廃棄の文化誌』(ケヴィン・リンチ著) 1993年4月

 今世紀の初め、パリの街の一角で、貧しく孤独な若い詩人が次のような言葉を残した。
「僕はこの都会で見る恐ろしいものをどれもいつか前に見たことがある。だからそれは容易に僕の心に入りこむのだ。僕の心に巣くっているからなのだ。」

 彼が見た恐ろしいものとは何か。それは単にオテル・ディユ病院やサン・ジャック街で見た病人や老人たちの悲惨な姿のことではない。裏町で通りがかりに見かけた、取り壊されてむき出しにされた建物の壁のことだ。
「各部屋の壁にそって薄汚い白い溝が、壁全体の上から下まで走っていて、その白い溝のなかを便所の錆ついた鉄管が言いようのない不潔な感じで、いわば蠕動する腸のようにグンニャリとあらわにうねり降りていた。」
 彼は、その廃屋を見たとたん、踵を返して逃げだすのだ。

 このエピソードはリルケの『マルテの手記』の中の一節である。これを過敏な病める魂の記録として読み過ごすことはたやすい。だが、ここには、近代という時代の感情構造のもっとも深奥にひそむタブーが告白されている。

 私たち20世紀の人間は、廃墟や廃棄物に対してどのようなまなざしを向けてきただろうか。

 明晰で健康なモラリストのアランは、「壊れて投げ捨てられた器物の堆積以上に醜いものはない」と語ったが、私たちはそれらを自分たちの視界からできるだけ排除し隔離しようとたえず努力してきた。

 けれど、なぜ、それらは醜いのか。アランも私たちも考えてみようとはしなかった。
 清潔、健康、快適、安全、効率、成長etc.、私たちの世紀はまるで憑かれたようにこれらの記号を追求してきたが、その有徴の対立項については思考を停止させてきたのだ。

 ところが、現在、私たちは、そうした思考の習慣を変更しなければならない時を迎えている。成長の限界、地球規模の自然破壊とりわけ産業廃棄物や核廃棄物etc.の問題が、その緊急性を警告しているからだ。

 むろん、これまで人間の居住環境の安全と健全さ、あるいは資源の有効利用とそのリサイクルをめぐって、廃棄物の適切な管理について論じられなかったわけではない。
だが、その語り口は科学技術のボキャブラリーとレトリックの枠内、つまりは排除と隔離の効率的なテクノロジーが語られてきたにすぎない。

 ケヴィン・リンチといえば、快適な都市づくり、人間の感覚にとって美的な形態とは何かについての数々の実践計画と著作、とりわけ世界的ベストセラー『都市のイメージ』の著者として名だかい。その彼が晩年に残した最後の著書が『廃棄の文化誌』であることはとても興味深い。

 日々のゴミ、ガラクタ、屑、残りもの、排泄物、汚物、不純なもの、不浄なもの、自然の破壊や衰退、廃棄された土地や建物、廃棄された時間、そして廃棄された人生etc.…、リンチがこの本の中で扱っているのは、地球上のありとあらゆる廃棄物と廃棄のプロセスについてである。

 文化人類学、歴史学、自然科学、社会科学を渉猟した「廃棄物のエンサイクロペデイア」ともいうべきこの書は、けれど、それだけにとどまらない。「廃棄物の肯定」という立場を宣言するリンチの、これはまさしく哲学的思索の軌跡なのだ。

 彼が文化の違いをこえて指摘するのは、廃棄物に対する人間の矛盾する二つの感情である。拒絶と魅惑。前者は私たちがよく知っている感情だ。
「私たちは消費を豊かさの指標としているが、消費の果てにあるものは嫌悪する。」

 だが、私たちにとってあまり馴染みのない後者の感情について、リンチは未開民族の儀式や子どもの遊び、あるいは廃品芸術家の作品や非行少年のヴァンダリズム(破壊行為)の例をあげて、その“愉しさ”とカタルシス作用について語る。そして、そこに数多くの知恵が見いだせることを指摘する。彼が提言するのは、「廃棄への新しい態度を学び、新しい技術と儀式を創設すること」なのである。

 では、これまで一貫して快適な都市環境と人間の美的形態を追求してきたリンチが、晩年になって、なぜ、あえて廃棄物をテーマとした思索に没頭したのか。
 この本の随所に死についての考察がうかがえ、また、最終章が「生命は成長であり、衰退であり、変様であり、消滅である。この連続性を維持することのうちに、喜びを見いだす術を学びたいものだ」と結ばれているように、これは“死を前にした人間”の思索の書なのである。

 それにしても、「変化の暗い側面」(プロローグの題である)を凝視しつづけ、人類を滅亡の危機に陥れようとしている問題の解決策について思考を持続するのは、強靭な精神のみがなしうることだ。究極のところ、リンチの“最後の言葉”は、廃棄物に対する「心の変革が必要」であることを私たちに説いているのだ。

 けれど、私たちは日々、たえず死を意識して生きているわけではない。
 そんな私たちに、どのようにして「心の変革」は可能だろうか。リンチは直接それに答えてくれないが、人間の廃棄物へのアンビヴァレントな感情が身体と親密に結びついていることを示唆している。

 そうなのだ、私たちが廃棄物を嫌悪するのは、私たちの「心に巣くっている」自我の崩壊のイメージが喚起されることへの恐怖からなのだ。今世紀の初め、リルケが『マルテの手記』の中でひっそりと告白したように。

 さて、私たちは、20世紀も終わりを間近にして、ようやく近代的自我が虚構のオブセッションにすぎなかったことに気づきはじめている。

 たしかに「心の変革」の時なのだ。今こそ、私たちは、あの「腐肉」の詩人ボードレールのダンディズムの精神を学ぶべきなのかもしれない。なぜなら、有限の地球資源を前にして、私たちは皆、彼のように禁治産者なのだから。


  1. 2012/03/09(金) 09:18:54|
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3月3日劇評2012MOON

劇団ケッペキ新人公演「MOON」

脚本:如月小春
演出:前田亜友


80年代演劇を現代の感性で演じる


如月小春の芝居がこの2月、京大西部講堂で上演された。学生劇団「ケッペキ」の新人公演『MOON』である。1980年代の小劇場演劇を代表しつつも44歳の若さで死んだ彼女の作品を、今の若者がどのように表現してみせるか、興味深い。
京大西部講堂といえば、70年代の終わり、私も仲間たちと数々のイベント(注)を行なった場所だ。ところどころ改装されているようだが、あと何年もつかというほど古い。もっとも、私たちの頃もそう言いあっていたけれど。
開場は午後7時、広い場内に石油ストーブがいくつかあるだけで、寒い。入場の際、使い捨てカイロを渡されたのは、劇団の心遣いだ。私たちの頃は、講堂前で焚き火をして暖をとったものだが、今は禁止なのだろう。もっとも、私たちの頃も禁止されてはいたのだろうが、咎め立てする教職員がいなかったのだ。


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  1. 2012/03/04(日) 06:33:43|
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宗教家がジャーナリストだった時代

宗教家がジャーナリストだった時代
              
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「昔、宗教家はジャーナリストでした。」
こう言うと、だれもが呆気にとられた顔をします。無理もありません。私にとっても、この発見は驚きだったのですから。
今から十五年前、阪神大震災の年に出版した本が、最近、再刊されることになりました。この出版不況の時代にありがたいことです。
「宗教家はジャーナリストだった」というのは、私がこの本を書くなかで発見した事実なのです。題名は『近代ジャーナリズムの誕生』といいますが、十九世紀半ばの英国で、今日のような大量部数の廉価な日刊新聞が誕生するまでの歴史をたどったものです。
近代ジャーナリズム以前の英国民衆にとって、ニュースとは何だったのでしょうか。
十五世紀半ばに活版印刷の技術が導入されるとすぐに、ブロードサイドと呼ばれる廉価な印刷物が出回るようになりました。
ブロードサイドは、前段に事件の大筋を伝えた文章が書かれ、後段にバラッド(俗謡)が載るというのが普通でした。
実際、ブロードサイド売りは、ロンドンその他の都市の街角で、フィドラーというバイオリンの原型の楽器を弾き、唄いながら売っていました。
では、どんなものがよく売れたかというと、犯罪事件や災害を扱ったものです。現在と変わりないな、と思われるでしょう。
ところが、それが大違いなのです。
今日、犯罪が発生すると、新聞は事件の速報を競い、テレビは現場中継に奔走します。ところが、近代ジャーナリズム以前では、そうした犯罪の発生時点で発行されたものは皆無です。
ブロードサイドの最盛期は十九世紀半ばですが、当時その実態を調査したヘンリー・メイヒューという人は、よほど大きな事件でないと発生時点では発行されず、しかもロンドンに限られる、と述べています。
では、どの時点で発行されたブロードサイドが人気を博したかというと、犯罪の結末つまり処刑の時に発行された「絞首台のバラッド」と呼ばれるもので、メイヒューはその最高発行部数を二五〇万部と述べています。
こうした事実を話すと、当時のイギリス民衆は残酷だったからだという反応が返ってきます。けれど、本当にそうでしょうか。
もしも当時の民衆が残酷だったなら、殺人の発生時点での、血腥いブロードサイドが発行されていたはずです。利敏い出版業者は、民衆の好みに応じて、殺人事件の発生現場に記者を走らせることも可能だったでしょう。
じつは、公開処刑の〝絞首台のバラッド〟を好んで読むのは、残酷な国民性によるという批判はその当時からありました。これに反論を加えたのが、当時最も人気の犯罪小説家にして政治家、最後は植民地大臣にまでなったブルワー≂リットンという人物です。
彼は、その著『英国と英国人』の中で、〝絞首台のバラッド〟を好んで買い求めるのは残虐な性格どころか、繊細な心根の持ち主であると論じています。自分の小説の愛読者が女性たったリットンならではの、アイロニカルな人間心理の洞察です。しかも、彼は公開処刑に反対し、その廃止に最大の貢献をした人物でもありました。
それでは、〝絞首台のバラッド〟とはどんなものだったかといえば、犯罪者の「生涯、審問、告白そして処刑」という内容で、この形式はずっと変わりません。
ならば、その書き手はいったい誰だったのでしょうか。獄中の犯罪者に罪の懺悔と改悛を勧めた人物、つまり教誨師だったのです。
しかしながら、私は、民衆に最も読まれたブロードサイドの書き手が監獄の教誨師だったという事実だけで、近代ジャーナリズム以前の時代、宗教家がジャーナリストであった、と述べているわけではありません。


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  1. 2012/03/02(金) 11:49:21|
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1月14日劇評2012

8人の女たち huit femmes

原作:Robert Thomas
脚本・演出:G2



透明な舞台の密室殺人劇


今回は、フランスの劇作家ロベール・トマの芝居を取り上げる。4年前のピーター熱演による「」につづく第2作「8人の女たち」である。
 前作と同様、登場人物のセリフだけで進行する会話劇、しかも今度は雪に閉ざされた邸宅での密室殺人をめぐる推理劇である。

 興味深いのは、通常の観客席の他に、ステージ後方にも客席を設え、舞台にあるのはソファーだけという、まるで密室性を消去した舞台づくりであることだ。しかも、舞台両袖にイスが並べられ、演技を終えた役者はそこに座って次の出番を待つ。

 このような演出の意図は何か。観客は、舞台装置にたよることなく、役者のセリフとしぐさだけから情景を思い描き、ストーリーの展開を追うことが求められる。だが、それ以上に、役者たちにとっては、通常の演技だけでなく、その立ち位置やセリフのない時の身ぶりを含め、終始舞台に全身をさらけ出すことが要求される。

 こうした抽象的で透明な舞台づくりはNODA・MAPの「贋作・罪と罰」(06年)をはじめ、これまでなかったわけではない。おそらく能舞台に起源を持つ、このような試みが成功することはまれだ。理由は単純である。演技を終えた役者の身体がたえず舞台上に見えるのは劇進行の邪魔だからだ。

 そのまれな成功例が、この「8人の女たち」である。


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  1. 2012/02/10(金) 13:44:21|
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11月19日舞台評2011

林檎の木の真ん中の心臓

作:大内卓
演出:キタモトマサヤ

かけがえのない日常への賛歌


この秋、「演劇の都(みやこ)」をうたう京都が、第26回国民文化祭の一環として現代劇の祭典を行なった。
 そのメインイベントの企画委員会プロデュース公演「林檎の木の真ん中の心臓」(11月2,3日、京都府立文化芸術会館)は、最年長が70代、最年少が10代と、京都で活動するさまざまな年代の役者たち男女各11名による群像劇である。この年令構成そのものが芝居のテーマとマッチしている。

 舞台は太平洋に浮かぶ南の島の小さな村落。そこに暮らす八つの家族の物語が、隣り合う所帯2組ずつ、1幕4場で展開する。

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  1. 2011/11/27(日) 17:19:08|
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10月8日舞台評「ベンガルの虎」

新宿梁山泊第45回公演「ベンガルの虎」
 作:唐十郎
演出:金守珍


激しい時代の熱風は今も伝わるか?


 新宿梁山泊のテントツアー2011が大阪からスタートした。場所は、空中庭園で知られる梅田スカイビル下の広場である。初日の夜は雨だったが、連結型の超高層ビルと雨に濡れて黒く光る紫テントという取り合せが、これから始まる芝居を予感させる。

 演目は、唐十郎の最高傑作といわれる「ベンガルの虎」(1973年初演)、1990年代初めから、唐作品を数多く演出してきた金守珍がこの大作(上演3時間!)にどう挑むか。いやむしろ、あの「激しい季節」(当時、麿赤児が発行していたアングラ新聞名)の混沌を体現したこの舞台が、現在の若者たちの感性にどう訴えることができるか。 同時代を生き、暗黒舞踏にも深く関与した私の関心は、その一点にある。ロンドンやニューヨークの若者の騒乱に比べて、この国の若者はなんとおとなしいことか。

 劇団員に案内されてテントの中に入ると、舞台はうらさびれた路地裏で、奥のアーケードには「牢獄横丁」の文字、上手の商店に「馬骨印房」の看板、下手には公衆便所がならぶ。東京は錦糸町界隈という設定だ。

 さて、ストーリーだが、開演早々、男優から、「物語は荒唐無稽だから、スジを追わないで、その場その場を楽しんで」の前口上があって、客席はどっとわく。だが、もちろん、物語はある。それも、悪夢の中で経験するようなストーリーが――

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  1. 2011/11/27(日) 03:04:53|
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見立てと日本人15

「やつし」という言葉の不思議

 見立て発想のなかでもとりわけ日本的な技法に「やつし」がある。
「やつし」という日本語はとても不思議な言葉である。
「窶し」「略し」という漢字をあてることからもわかるように、もともとの意味は「目立たない、みすぼらしい姿に変えること」である。ところが、本来の意味とは別に、まるで逆の意味に用いられることがある。「化粧する」とか「着飾る」とかいう意味で用いる場合である。(ほかに、「恋に身をやつす」などという言い方もあるが、これはもとの語意からそう遠くはない。)
 では、いつ頃から、このような意味の逆転が生じたのであろうか。
 まず、もともとの意味の方であるが、こちらは『伊勢物語』や『源氏物語』をはじめ、平安時代から数多く用いられている。11世紀半ばの『堤中納言物語』の例をあげてみよう。
有名な「虫めづる姫君」の中の、姫が虫の飼育に熱中するあまり、「かくまでやつしたれど、みにくくなどはあらで」(これほどまでにみすぼらしくしているが、見苦しいなどということはない)という表現がそれである。姫君の美しさは、たとえみすぼらしい身なりをしていても、おのずから輝いて見えるという含意が込められていることに注意しておきたい。
 もっとも、『源氏物語』では、その最終巻「夢浮橋」の中の浮舟が傷心のあまり、「心もなく、たちまちに形をやつしてける」(前後のみさかいもなく、あっという間に姿を尼の姿にしてしまった)という例のように、「出家する」意味で用いられる場合も多い。
これは『伊勢物語』についてもいえることであるが、この用法がもとの「みすぼらしくする」という語意から派生したものであることはたやすく理解できるだろう。
 さて、一方、「化粧」や「着飾る」意味での「やつし」の用例だが、どうやら江戸時代からのようである。岩波の広辞苑によれば、『浪花聞書』に「やつす。顔かたちなどつくり、又、女の化粧することをかく言ふ」とある。
 また、あの鈴木春信が東錦絵に着手した明和2年(1765)の『俳風柳多留』(呉陵軒可有編)の中に、「やつさずに濡れ事をする新五郎」という狂句がある。
 こちらは、小学館の国語大辞典が「化粧」「着飾る」の意味の例としてあげているものだ。それにしても、なんだかスキャンダラスな匂いのする句ではないか。
 それもそのはずで、正徳4年(1714)の春、大奥女中の江島と密通のかどで流刑に処せられた実在の歌舞俳優、とりわけ和事に長じた生島新五郎のことを詠んだ句なのである。
つまり、「化粧をした舞台の上でなら許されようが、素顔のままでほんとうの醜聞を演じてしまった愚かな新五郎」というのがこの句の意味なのである。
 けれど、なぜ、「やつし」が江戸時代になって「化粧」や「着飾る」の意味へと転換したのか。その原因を探ってみることにしよう。
 「やつし」という言葉の両極の意味の間に共通する点はないだろうか。
それは、「みすぼらしい姿をする」ことと「着飾る」ことのいずれもが平常の状態ではない、という点だ。もっといえば、どちらも「変装」という行為を意味している。
 これを記号論的にいえば、どちらの状態も「有徴」で、しばしば意味の乗換えが生じるということになる。だが、そうした説明は後知恵の結果論にすぎず、創造的思考のためにはむしろ有害である。私たちが探らなければならないのは、「やつし」の意味の逆転が生じた現場検証なのである。
 ところで、「やつし」が歌舞伎の技法として完成をみたのは、およそ元禄期の上方歌舞伎においてであったといわれる。
 「やつし事」といえば、わけあって身を落した高貴な人物や金持の息子などがいやしい姿でする演技あるいはその芝居をさす。また、それを演じる役柄あるいはそれを得意とする俳優を「やつし方」という。
 この演技で大切なことは、ほんとうにやつれた姿になってしまってはただの卑俗(じつ事)に堕してしまう。気品や鷹揚さを失うことなく卑俗を演じなければならないという、いわば「貴」と「賎」との二重性(ダブルイメージ)の演技にある。
 じつは歌舞伎の「やつし事」の起原は、貴種流離譚と呼ばれる物語にある。『伊勢物語』や『源氏物語』はいうまでもなく、さきに例としてあげた「虫めづる姫君」もその系譜に属している。身なりもかまわず、醜い虫けらと戯れながらも、姫の高貴さが滲みでるところにこの小さな物語の眼目があるのだ。
 要するに、「貴」が「賎」を演じるのが「やつし」なのであり、ほんとうの「貴」がいかにうまく「賎」を演じたところで、おのずからその気品は現れずにはいない。そのような二重の演技をせよ、というのが歌舞伎の「やつし事」の基本にほかならない。
 ところが、「やつし方」つまりそれを演じる歌舞伎役者にしてみれば、この演技の二重性の背後に、もうひとつの二重性が生じていることになる。なぜなら、そうした「貴」を演じるのは役者という「賎」だからである。
 卑賤な身分である役者は、顔をつくり扮装を施すことによって「貴」なる身分を演じるのである。
 このように、「やつし」という言葉に「化粧をする」という本来の意味とはまるで正反対な意味が生じるのは、歌舞伎の「やつし事」に由来していると考えてよいだろう。
 それにしても、あの『柳多留』の「やつさずに濡れ事をする新五郎」という狂句は、この二重の二重性をじつに見事に表現したものといえる。というのも、この句には、「やつし方」の名優生島新五郎は舞台の上ではなく(「やつさずに」)大奥女中江島とほんとうの濡れ事(「やつし事」と同義)をしたために、三宅島への遠島という現実の「やつし」を演じてしまった。つまり、「やつさない」ことが「やつす」ことになった、というアイロニカルな含意(洒落)が込められているからである。
 この狂句は、実際の「江島生島事件」からちょうど半世紀後に詠まれたものだが、当の事件に材をとった芝居は徳川時代には禁じられたものの、明治期に入ると河竹黙阿弥作をはじめ、数多くの「江島生島物」が次つぎに生みだされた。その理由は、現実と虚構を往還する「やつし」の特異な二重性が、すぐれた劇作家たちの創作意欲を刺激してやまなかったからにほかならない。






  1. 2011/11/26(土) 10:17:37|
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見立てと日本人14

見たては類似性を媒介とした思考法か

 これまで「見立て」について書かれた研究論文の数はけっして少なくはない。しかも、「見立て」が日本文化のさまざまな領域に通底する発想法であるため、当然ながら、その研究分野も多岐にわたっている。
 ところで、それらの研究にことごとく共通しているのは、「見立て」が「類似性」との関連で論じられている点である。
 たとえば、古いところでは、江戸戯作論の権威中村幸彦氏の、「見立ての微妙は、一見似て居ない或は似て居ないと一般に思はれて居る物或は点に就いて類似を見出す事にかかって居る。」という、その後しばしば引用される有名な一節がある(「見立て」『国語、国文』)1944年)。
 また、最近では、日本古典文学とりわけ和歌に研究に西欧レトリック論を導入することで精力的な業績をあげている尼ヶ崎彬氏の、次のような定義がある。
 「見立てとは、常識的な文法や連想関係からは結びつかぬものを、類似性の発見によって(ないしは類似性の設定によって)結びつけ、それによって主題となってものに新たな《物の見方》を適用し、新しい意味を(または忘れられていた意味を)読者に認識させるものである」(『日本のレトリック』1988年)。
 先の中村氏の引用個所とよく読み比べてみれば、同工異曲であることは一目瞭然であろう。
 ちょっと目先をかえて、国文学関係以外の文献をのぞいてみることにしよう。
 わが国を代表する建築家のひとり磯崎新氏は、そのタイトルも「見立ての手法」というエッセイのなかで、次のように定義している。
 「見立ては、類似性(アナロジー)を媒介にして、連想(アソシエーション)を喚起し、対象物を分節化(アーティキュレーション)していく手法である」(『見たての手法』1990年)。
 日本庭園の成り立ちからわが国の文化を縦横に論じたこのエッセイは、当時はやりの構造主義言語学の影響下に書かれたもので、「分節化」などというちょっと未消化な語を用いている点をのぞけば(注1)、実践家らしい刺激的な知見に富んでいる。
 だが、「見立て」を「類似性」との関連で論じている点では、先にみた二人の国文学者と同じである。
 ところで、つい2年前、『日本の美学』という雑誌に「見立て」の特集があった。その巻頭に、西洋美術史家の高階秀爾氏と文化類学者の山口昌男氏の対談が掲載されている。
そのなかで、この国の知性を代表する二人が西欧と日本の比較について語っているくだりがある。その会話じたいがとても日本的で面白いので、そのまま再現してみよう。
 高階ー西欧では、比喩というのはメタファーですね。比喩と「見立て」、いったいどこが違うんでしょう。
 山口ー「見立て」の方はすりかえ、うつしかえがあるのです。似ているということを手がかりにして、それを違ったふうにもっていく。引用は形を変えないでそのままもってきて、コンテクストの中において、周りとの関係で、意味が変わるような装置ですが、「見立て」は、似ているところを残しながら、形を全部変えてしまって、距離感をつくりだすというようなところがあると思うのです。
 この会話がなぜ面白いかというと、高階氏の方はメタファーと見立ての相違について尋ねているのに対して、山口氏はそれこそ質問を「すりかえ」「うつしかえ」て、引用と見立ての違いを語っているからだ。
 西欧人の間では、こういう対話は生じない。これは俳階連歌の伝統に通じる、日本人に特有なコミュニケーション様式の会話なのである。つまり、西欧と日本の比較のために高階氏が提示した「メタファー」を、山口氏は、「引用」というテーマに移し替えることによって両者の相違をより明確にしようとしている。けっして論点を曖昧にぼかしているわけではないのだ。そして、こうした会話の進行こそ、俳諧でいう「見立て替え」という付け句の作法にほかならない(注2)。
 もっとも、文化人類学者の山口昌男氏の「見立て」の議論にも、やはり「類似性」への言及がみられることはご覧のとおりである。
 さて、このあたりで定義尽くし(これはこれで見たての技法の一種なのだが)はおしまいにしておこう。「見立て」は、さまざまな分野の研究者が異口同音に「類似性」と結びつけられて論じてきたのである。
 けれど、はたして私たちは、あるものを別のものに見立てるとき、ほんとうに「類似性」を手がかりにしているのだろうか。
 私の考えでは、否である。
 たしかに、春信の見立て絵をはじめ、これまで列挙した数々の作品を見ると、「見立てたもの」と「見立てられたもの」の間には類似性が見受けられるように思われる。
たとえば、「見立大黒天」(図版参照)という絵は、打出の小槌をもって俵の上の乗った大黒様の替わりに若い娘が同じ格好をした姿を描いたものだ。大国様が女に替えられただけで、その他の小道具は同じなのだから、「類似性」はたしかに歴然としている。
 だが、見誤ってはいけない。その類似は〈結果〉であって、製作者の〈意図〉の段階いいかえれば発想プロセスにあっては「類似性」はたいして重要ではないのだ。
 私は以前に、春信の「見立寒山拾得」などの見立て絵は子どもたちのごっこ遊びに近い発想だと述べたことがあるが、ごっこ遊び(「見立て遊び」とも呼ばれる)を観察すれば、たやすく理解できよう。
 たとえば、子どもたちが一本の縄を使って電車ごっこをする時、縄と電車の間に、いったいどのような類似性があるといえよう。
 このことは、私自身、横綱若乃花を蝶に戯れる獅子に見立てた化粧回しのデザインを考案する際に経験していることである。
けっして類似性を媒介にしたわけではない(連載第1回参照)。
 それでは、なぜ、さまざま分野で、見立ての定義として「類似性」の「発見」や「媒介」が言い立てられてきたのであろうか。
 答えは簡単である。鑑賞者の立場からなされた議論だからである。要するに、後知恵なのだ。気をつけないと、たとえ実作者であっても、こうした後知恵にひきずられてしまう。もっとも、時には鑑賞者の視点も大事であることはいうまでもないが。
 あるものから別のものが生み出される、その生成プロセスを真に解明しようとするならば、それこそさまざまな実作者の創造の現場、その脳内イメージの世界にまで肉迫しなければならない。
 私がこの連載エッセイで企図しているのは、単なる日本人論でも日本文化論でもなく、まさにそのことなのである。

(注1)「分節化」という語は「類似性」ではなく、「差異性」についてのキーワードだからである。
(注2)新しい技術開発の現場で、技術者同士が交わしてる会話がこのような俳諧の「付合」(つけあい)に似たコミュニケーションとなることは注目に値する。この問題はいずれ考察するつもりである。



  1. 2011/11/26(土) 10:00:59|
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